享年87歳でなくなったジャニー喜多川さんですが、父・喜多川諦道(きたがわ・たいどう)さんもまた名誉ある人物だったことがわかりました。
喜多川諦道さんは職業として僧侶を務めアメリカロサンゼルスの日本人街(リトル東京)の顔として、ルーズベルト大統領から表彰されたこともあるそうです。
今回はジャニー喜多川さんの父親・喜多川諦道さんはどんな人?職業や生い立ち、アメリカに行ったきっかけ、どんな人生だったのか?についてご紹介します。
喜多川諦道(ジャニー喜多川の父)はどんな人?職業・生い立ちは?
喜多川諦道(ジャニー喜多川の父)は8歳で出家していた
名前:喜多川諦道(きたがわ・たいどう)
誕生年:1896年
出身地:大分県
職業:僧侶 → 球団マネージャー
喜多川諦道さんは8歳の時に真言宗系のお寺に稚児として出家しています。
その理由は明確にはされていませんが、両親と縁のあった知人を慕って出家したとされています。
●稚児とは
稚児とは、3つの意味があります。
①乳児、幼児
②神社やお寺のお祭りに参加する子供たち
③剃髪しない少年修行僧
喜多川諦道さんは③の少年修行僧でした。
アメリカ行きは布教活動がきっかけだった!
8歳で少年修行僧として出家し、13歳で和歌山県高野山の普賢院のに師事。
その後、宗長からの命で真言密教の開教師となり、喜多川諦道が28歳の時(1924年)にロサンゼルスに渡米。
アメリカ行きの目的は布教活動で、元々は1年かけて世界を一周する予定だったそうです。
しかし当時の高野山米国別院の主監(代表)が急遽帰国することとなってしまい急遽、喜多川諦道さんが第3代主監を勤めることになったのでした。
ロサンゼルスで3人の子供が生まれる
アメリカ生活が長くなったことで喜多川諦道さんは妻・栄子さんをロサンゼルスに呼び寄せます。
そして9年間のロサンゼルス生活の中で喜多川諦道さんと妻・栄子さんの間に3人の子供が生まれました。
それがジャニー喜多川さん3姉弟です。
長女・メリー泰子(やすこ)・・1926年12月26日生
長男・真一(まさかず)・・不明
次男・ジョン・擴(ひろむ)・・1931年10月23日
なお、長男の真一さんはNASAでアポロ計画に携わる優秀な設計士でしたが、50代半ばで亡くなっています。
喜多川諦道はフランクリン・ルーズベルト大統領から表彰されていた!
喜多川諦道さんは日本にいた時からにぎやかで楽しいことが好きだったようで、ロサンゼルスに渡ってからもお祭りごとを開催したり境内に歌手を呼ぶなど、芸道の才能があったようでした。
当時のリトル・トーキョー(小東京)では日系アメリカ人1世のつながりはとても強かったそうですが、仏教界との繋がりがあまりなかったそうです。
そこで喜多川諦道さんが考えた策が、高野山の婦人会で日舞や踊りを練習し、他の宗派とも協力して盆踊りを踊ること。
この盆踊りこそが、今世にも続く「二世週祭」の始まりとなりました。
さらに喜多川諦道さんは、1931年に日系人少年33人で高野山第379団ボーイスカウトを結成。
これは米国で最古のボーイスカウトとして現在でも活動が続けられています。
●ボーイスカウトとは
ボウイスカウトは青少年の自発性を大切に、グループでの活動を通じて、それぞれの自主性、協調性、社会性、たくましさやリーダーシップを育てていく活動。キャンプや募金活動など、年代によっても色々な野外活動・プログラムがあります。
こういった喜多川諦道さんの働きが高く評価され、1935年に当時のアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領から表彰されるにまでなりました。
喜多川諦道さんはアメリカ国籍の日本人1世にとって、顔であり希望の星となったのですね!
日本へ帰国後は大映スターズ(野球)のマネージャーに
そんな日米交流の顔とまでなっていた喜多川諦道さんですが、戦争ががきっかけで次男・ジャニーが生まれた2年後に強制送還されてしまいます。
1933年に帰国した喜多川諦道さん家族は大阪・京都で暮らしますが、翌年に京都で妻・栄子さんが死去。
さらに激しくなる戦争のため、1942年には子供達3人をゆかりのある和歌山県東牟婁郡勝浦町に疎開させます。
このタイミングで喜多川諦道さん家族は親子離れ離れになってしまいました。
独り身となった喜多川諦道さんは、高野山真言宗・法案寺のつてで工場で働きながら大阪で暮らします。
その後1946年に勤めていた工場が野球チーム「ゴールドスター → 大映スター」(現・千葉ロッテマリーンズ)のオーナーになったことから、喜多川諦道は1949年まで球団のマネージャーを務めることになります。
※当時は特にチームの本拠地はありませんでしたが、買収を繰り返したことで現在は関東拠点チームとなりました。
喜多川諦道の晩年
喜多川諦道さんは53歳で大映スターのマネージャーを退団。
その後は大映スターのオーナーの親族が経営する心斎橋の煎餅屋「杵萬」に居候し、昭和40年代(1965年前後)に亡くなったとされています。
家族バラバラになってしまったことで、喜多川諦道さんの葬儀にジャニーさん・メリーさんの姿はなかったそうです。
なんだか悲しいですね。。
喜多川諦道が始めた二世週祭りにジャニーズが出演
2019年8月10日にロサンゼルス・リトルトーキョー(小東京)で開催された「二世週祭」に、人気絶頂のジャニーズJr.「美少年」が出演しました。
これはジャニー喜多川さんがただ単に海外進出を目指していたことだけが理由ではありませんでした。
ジャニー喜多川さんは父・喜多川諦道さんが主監をつとめたロサンゼルスの高野山米国別院のことを日本に帰国したあともずっと気にかけていたからだそうです。
美少年のロサンゼルスコンサートでメンバーの那須雄登(なす・ゆうと)は
「This is first started by Johnnys’ father Mr.”Taido Kitagawa”」(この場所はジャニーさんの父・喜多川諦道さんから始まりました)
と発言していたことからも、ジャニー喜多川さんが父・喜多川諦道さんの想いを受け継いでいたことが伺えますよね!
本当はジャニー喜多川さんもロサンゼルスに赴く予定だったそうですが、残念ながらそれは叶いませんでしたが。。
ですが父の想いを受け継いだジャニー喜多川さんの想いも、この先もジャニーズのタレントやスタッフに受け継がれ続けることでしょう。
まとめ
以上、ジャニー喜多川さんの父・喜多川諦道(きたがわ・たいどう)さんの職業、生い立ちやアメリカ行きのきっかけ・どんな人生だったのかについてまとめました。
日米交流の顔となった喜多川諦道さん、そしてその血を受け継いだジャニー喜多川さんが日本芸能界の顔となったのも納得できますよね。